ビワハヤヒデ伝説【優等生である!】

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第一章 ビワハヤヒデとの出会い

ビワハヤヒデ。競馬史に名を刻む「無敵の兄貴」だ。1990年3月10日、福島県で生まれたこの芦毛の馬は、持ち込み馬として日本競馬界に足を踏み入れた。

本来なら母馬はイギリスで出産する予定だったが、輸入のタイミングがずれたことで、急遽日本で産まれることになったという。

デク

「持ち込み馬」というのは、日本で生まれながらも、輸入扱いされる馬のことだな。外国産馬とは違い、クラシックにも出走できるんだ。

アワアワ

へぇ、そんな生い立ちだったんだね!

デク

持込馬について話すと長くなるからな。
詳しくは今度解説するとしよう。

幼少期のビワハヤヒデは、顔が大きくて、ずんぐりした体型をしていたそうだ。

当時の関係者は「頭が大きすぎる馬は競走馬として大成しない」と言っていたらしいが、後の活躍を見れば、それが間違いだったことは明白だろう。

2歳の頃には牧柵に激突し、右前脚を10cmほど削る事故に遭った。

デク

もしあと1cm傷が深ければ、競走馬としての道は絶たれていたという。
まさに奇跡の馬だったわけだ。

アワアワ

そんな運命の分かれ道があったんだね……!

ビワハヤヒデは、そんな試練を乗り越え、競走馬としての道を歩み始める。

しかし、デビュー戦からいきなり圧巻のパフォーマンスを見せることになるのだった。

第二章 華々しいデビューと「勝負弱い」という烙印

1992年9月13日、阪神競馬場。

ビワハヤヒデはデビュー戦で、いきなり2着に10馬身差をつける圧勝を飾った。

アワアワ

10馬身差って、どれくらいすごいの?

デク

1馬身=約2.4メートルだから、ざっと24メートルの大差だな。
新人ボクサーがデビュー戦で相手を瞬殺するようなものだ。

続くもみじステークス、デイリー杯3歳ステークスもレコード勝ち。

デビュー3戦で、既にクラシック候補として注目を集める存在になった。

だが、初のGI挑戦となる朝日杯3歳ステークスで、意外な結果が待っていた。

単勝1.3倍の圧倒的1番人気だったビワハヤヒデは、まさかのハナ差2着。

勝ったのは伏兵エルウェーウィンだった。

アワアワ

えっ!?
そんなに強い馬が負けちゃうこともあるんだ?

デク

競馬は何が起こるかわからない。
それにこの敗戦が、後々『勝負弱い馬』という評価を生むことになる。

この後も、共同通信杯でハナ差2着皐月賞でクビ差2着日本ダービーで半馬身差2着と、惜敗が続く。

いつも安定して好走するのに、なぜか勝ちきれない。

そんなビワハヤヒデの姿に、「どうしてもあと一歩が届かない馬」というレッテルが貼られ始めたのだった。

第三章 ついにクラシック制覇!菊花賞で証明した実力

1993年の菊花賞。

クラシック最後の一冠をかけたレースで、ついにビワハヤヒデは「勝負弱い」という評価を覆す。

このレースには、春のクラシックを争ったライバル、ナリタタイシンとウイニングチケットの姿がなかった。

ビワハヤヒデにとって、これは「負けられない戦い」だった。

アワアワ

これは勝ってほしいやつだね!

レースがスタートすると、ビワハヤヒデは好位からじっくり進み、直線で満を持して抜け出す。

そして、2着馬に5馬身差をつけて圧勝。

走破タイムは、日本レコード更新の3分4秒7。

この瞬間、「ビワハヤヒデはやっぱり強い」と、誰もが認めることになった。

アワアワ

ついにやったんだね!

デク

そうだな。
そして、この菊花賞を制したことで、ビワハヤヒデは年度代表馬に選ばれたんだ」

だが、この年、もうひとつの「伝説の始まり」も生まれていた。

そう、ビワハヤヒデの弟――ナリタブライアンの台頭である。

第四章 兄の誇り、春の天皇賞制覇

1994年4月24日。

京都競馬場で行われた春の天皇賞(3200m)。

前年の菊花賞を圧勝し、古馬になっても安定した強さを見せていたビワハヤヒデ。

このレースでは単勝オッズ1.3倍の圧倒的1番人気に支持されていた。

アワアワ

1.3倍!?
これはもう確勝ムードだったんじゃない?

デク

確かに周囲の期待はそうだったな。
ただ、競馬に“絶対”はない。

ビワハヤヒデは好スタートを決めると、序盤は先行集団につけ、余裕のある走りを見せた。

しかし、スローペースが続いたことで、気性の激しいビワハヤヒデは掛かり気味になってしまう。

「これは大丈夫か?」という不安が一瞬よぎる中、直線に入ると、岡部幸雄の手綱に応えて鋭く反応。

追いすがるナリタタイシンを尻目に、ラスト200mで突き放し、1馬身1/4差で見事優勝を果たした。

アワアワ

すごい!
ついに春のGIを勝ったんだね!

デク

ああ。
この勝利で、ビワハヤヒデは完全に『現役最強』の座を手にした。

前年にクラシックを戦ったナリタタイシン、ウイニングチケットはすでに衰えを見せ始めていた。

そんな中、ビワハヤヒデだけが強さを維持し、堂々と王者の風格を漂わせていた。

しかし、この時すでに「最強」と呼ばれた兄を超える存在が、静かに牙を研いでいた――。

第五章 無敵の兄貴、宝塚記念の衝撃

6月12日、阪神競馬場。

ビワハヤヒデは春のグランプリ・宝塚記念に出走した。

このレースでは、ウイニングチケットもナリタタイシンもおらず、強敵と目される馬はほぼ皆無。

ファンも「これは楽勝だろう」と思っていた。

そして、結果は――

5馬身差の圧勝、2分11秒2の日本レコード

アワアワ

えっ!?
そんなにぶっちぎったの!?

デク

ああ。
まさに『無敵の兄貴』の名にふさわしい圧勝劇だった。

レース後、岡部幸雄は「道中はまるで調教のような楽な手応えだった」と語ったという。

もはやライバルはおらず、ビワハヤヒデは競馬界に君臨する絶対王者となったのだった。

しかし、この圧勝劇の裏で、弟ナリタブライアンもまた、日本ダービーを5馬身差で制していた。

「兄 VS 弟」

競馬ファンは、年末の有馬記念での兄弟対決を待ち望むようになっていた。

第六章 波紋を呼んだジャパンカップ回避

秋を迎えたビワハヤヒデ陣営は、次走を「天皇賞(秋)→有馬記念」に設定。

ジャパンカップには出走しない方針を打ち出した。

アワアワ

えっ?
なんでジャパンカップに出なかったの?

デク

当時のジャパンカップは、海外の強豪馬が集まる大レースだったからな。
ビワハヤヒデ陣営は、そこを回避して有馬記念をピークに持っていくプランを選んだんだ。

しかし、この決定には賛否両論が巻き起こった。特に「日本最強馬が世界と戦わないのはどうなのか?」という批判もあったという。

だが、ビワハヤヒデ陣営にとって最大の目標は、やはり「有馬記念での兄弟対決」だった。

だが――その戦いは、幻となる。

第七章 無念の天皇賞(秋)…そして故障

1994年10月30日。東京競馬場で行われた天皇賞(秋)。ビワハヤヒデは、1.5倍の1番人気に支持されていた。

しかし、結果は…… 5着敗退。

レース後、岡部幸雄が下馬。

ビワハヤヒデは左前脚の屈腱炎を発症していた。

アワアワ

えっ!?
兄弟対決、どうなるの!?

デク

……もう、叶わない夢になったんだ。

全治1年以上の診断。

有馬記念どころか、現役復帰すら厳しい状況だった。

そして、陣営は悩んだ末、ビワハヤヒデの引退を決定した。

第八章 実現しなかった兄弟対決、そして弟の伝説へ

1994年12月25日。

有馬記念の日がやってきた。

だが、そこに「兄」の姿はなかった。

ファンが待ち望んだ「兄 VS 弟」の夢の対決は、幻と消えた。

そして、そのレースで――

ナリタブライアンが、7馬身差の圧勝。

アワアワ

7馬身!?
すごすぎる……!

デク

まさに“弟の伝説”が生まれた瞬間だったな。

ナリタブライアンは三冠馬となり、「最強馬」として歴史に名を刻んだ。

一方、兄ビワハヤヒデは、影の王者として競馬界を支え続けた存在だった。

2頭の兄弟は、異なる形で歴史に名を残したのだった。

第九章 消えない魂、そして未来へ…

ビワハヤヒデは種牡馬となったものの、後継馬は生まれなかった。

しかし――

彼の存在は、競馬界に今も影響を与え続けている。

なぜなら――

アワアワ

なぜなら!?

デク

ビワハヤヒデの血統は、直接ではなくても、競馬界の進化に大きく影響を与えているからだ。

デク

例えば、弟ナリタブライアンの登場が「三冠馬の基準」を引き上げた

それが、後のディープインパクト、オルフェーヴル、そしてイクイノックスへと繋がっていく。

アワアワ

そっか……
伝説は、血統だけじゃなくて、競馬界の流れを作ることでも受け継がれるんだね。

デク

そういうことだ。
だから、ビワハヤヒデの魂は、これからも競馬の中で生き続ける。

――そして、新たな伝説が、今まさに生まれようとしている。

アワアワ

えっ!?
それって……?

デク

その話は、また今度にしよう。

競馬の歴史は、終わらない。

そして、新たな名馬が登場するたび、ビワハヤヒデの名もまた思い出されることになるだろう――。

―To be continued…

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